更級日記 第1回 納得の音読
「更級日記」はじまりの段 音読
最後まで聞いたら、自身で音読してみてください。
文字をよく見て、声に出し、耳でしっかり受け止めて、心に響かせる。そして、脳で納得する。これを、「自分に聞かせる音読」「納得の音読」といいます。
あづま路の道のはてよりも、なお奥つ方に生い出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやとおもひつつ、つれづれなる昼間、
いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏をつくりて、手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、
「京にとくあげ給て、物語の多く
と、身を捨てて
年ごろ遊びなれつる所を、あらはにこぼち散らして、たちさはぎて、日の入りぎはの、いとすごくきりわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば、人まには参りつつ、額をつきし薬師仏の立ち給へるを、見捨て奉る悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。
「更級日記」の事前知識
書名は、本文の終わりにある作者の和歌による。
月も出でで 闇にくれたる 姥捨てに 何とて今宵尋ね来つらむ
1020年(寛仁4)9月、13歳の時に父の任国、上総を出発し、その旅での見聞(竹芝伝説や足柄山の遊女など)を記し、上京後は「源氏物語」をはじめとする物語に耽溺し(14歳)、憧れた少女時代、姉との死別(17歳)、
※更級郡:信濃国にあった郡。古くから姥捨ての伝承がある。また、小さな棚田に月が映える「田毎の月」で有名。
※物語や日記の中の「和歌」は、和歌が詠まれた状況が分かるので、和歌単独よりも解釈が深くなる。上記「姥捨ての和歌」は、周りからは見捨てられたような孤独な生活にふと甥が訪ねてくれた喜びを詠ったものである。
人物
菅原孝標女(作者)
1008年(寛弘五年)京で生まれる。
※「紫式部日記」はこの年の秋から記述が始まる。紫式部日記には、源氏物語の一部が既に流布されていたことが下記の記述から記分かる。
左衛門督、
「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ。」と、うかがひたまふ。
源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。
1060年(康平3年)死か?生存が確認出来る最後の年。53歳。夫の死後2年目。
※藤原定家の「仮名奥書」に書かれているように、「
菅原孝標(父親)
学問の神様と称される菅原道真(845-903)の五代末裔。長保3年(1001年)に従五位下を叙爵。寛仁元年(1017年)に上総介、また、長元5年(1032年)に正五位下・常陸介に叙任された。学問の家に生まれたが、孝標は大学頭・文章博士には任官しなかった。若き孝標の行動は、孝標の上司であった藤原行成の日記「
実母
藤原
継母
高階成行の娘で、既に宮仕えの経験があり、物語を好み歌を詠む感性豊かな人だったようである。成行の弟が紫式部の娘、大弐三位と結婚しているから、その縁で「源氏物語」の写しを見る機会にも恵まれたのだろう。下総に同行し、帰京後には離縁している。数年後には別の男性と結婚して、「上総
姉、兄
姉と兄は、上総に同行した。姉は、作者と共に空想しさながら一心同体の趣で短い歳月を生きた。上京後すぐに結婚し、二人目の子供を産んで他界する。兄については、上総から上京の途次、出産の為、上京できない乳母を見舞うのに「兄人となる人」が「いだきて」連れて行ってくれた場面がある。後に和泉守となる。
夫、橘俊通
源資通
ささやかな恋愛感情をもった。

図引用:新潮日本古典集成 土佐日記 貫之集
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