「歎異抄」を音読する(3)

「歎異抄」音読の第3回です。

「歎異抄」を朗読する、もしくは他者の朗読を聞く前に、自身の声で音読してください。歎異抄の文字をしっかり見て、それを自分の声にして、自分の耳に、自分の心にとどくように音読してください。音読を繰り返し、こころからの理解が深まれば、それは自然と朗読になります。音読が出来なければ、朗読は出来ません。また他者の朗読をしっかり聞くことは出来ません。
歎異抄の真意は、ひとえに自身の口でこころから「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」を称える(称名(しょうみょう)念仏)お誘いであります。

一 「念仏者は無碍(むげ)の一道なり。
 そのいわれいかんとならば、信心の行者(ぎゃうじゃ)には、天神(てんじん)地祇(ちぎ)敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道も障碍(しゃうげ)することなし。罪悪も業報(ごふほう)を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆゑなり」と云々。

一 「念仏は行者のために非行(ひぎゃう)・非善なり。
わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに、他力にして、自力を離れたるゆゑに、行者のためには非行・非善なり」と云々。

一 「念仏申し候へども、踊躍(ゆやく)歓喜(くわんぎ)の心のおろそかに候ふこと、また、いそぎ浄土へ参りたき心の候らはぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん」と申しいれて候ひしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房(ゆいゑんぼう)、同じ心にてありけり。
よくよく案じみれば、天に踊り、地に(おど)るほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ、往生は一定(いぢゃう)と思ひ給ふなり。喜ぶべき心を抑へて喜ばせざるは、煩悩の所為(しょゐ)なり。しかるに、仏、かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫(ぼんぷ)と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごとし、われらがためなりけりと知られて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
 また浄土へいそぎ参りたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと、こころぼそくく覚ゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くをんごふ)より今まで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)は捨てがたく、いまだ生れざる安養(あんにゃう)浄土は恋しからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(ごうじょう)に候ふにこそ。なごり惜しく思へども、娑婆(しゃば)の縁つきて、力なくして終わるときに、かの()へは参るべきなり。いそぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみ給ふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲・大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。
 踊躍・歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へも参りたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなまし」と云々。

一 「念仏には、無義をもって義とす、不可称・不可説・不可思議のゆゑに」と仰せ候ひき。

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