「方丈記」を読む

「方丈記」の書き出しです。音読してみてください。

古文(古典)の学習は、「音読で始めて、音読で終わる。」を信条とし、「専修(せんじゅ)音読」「只管(しかん)音読」の実践を旨とします。ただひたすらに「音読する」ことです。※ページ末の注釈を参照

 ()く川の流れは絶えずして、しかも、(もと)の水にあらず。(よど)みに浮ぶ うたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく(とど)まる(ためし)なし。世の中にある人と(すみか)と、またかくのごとし。

 玉敷(たましき)の都の中に、(むね)を並べ、(いらか)を爭へる、(たか)き卑しき人の住居(すまひ)は、代々(よよ)を經て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。(ある)は、去年(こぞ)焼けて今年造れり、或は、大家(おおいへ)滅びて小家(こいへ)となる。住む人も、これにおなじ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、(わず)かに一人・二人なり。

 (あした)に死し、(ゆうべ)に生るゝ ならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。不死(しらず)、生れ死ぬる人、何方(いづかた)より來りて、何方へか去る。また不死(しらず)、仮の宿り、()がために心を悩まし、何によりてか、目を悦ばしむる。その主人(あるじ)(すみか)と、無常を爭ふさま、いはば、朝顔の(つゆ)に異ならず。或は、露落ちて花殘れり。殘るといへども、朝日に枯れぬ。或は、花は(しぼ)みて露なほ消えず。消えずといへども、(ゆうべ)を待つことなし。

鴨長明

名は正しくは「ながあきら」。1155年生。1216年(62歳)没。
下鴨神社禰宜(ねぎ)、長継の子、早く父を失い、社家の人々との交際は乏しかった。
<和歌>を俊恵(しゅんえ)に、<琵琶>を中原有安に学び、歌合、歌会に列した。後鳥羽院に歌才を認められ、1201年(建仁1)和歌所寄人(よりうど)に加えられる。
同族の反対により河合社(ただすのやしろ)禰宜への家督相続に失敗し、これを機に出家し、名を蓮胤(れんいん)と号し、初め大原に、後に日野の外山に「方丈の庵」を建てて住んだ。
勅撰和歌集「千載集」初出。後鳥羽院が編纂した「新古今和歌集」に10首入選。
出家後の著作として「方丈記」、歌論集「無名抄」、説話集「発心集」がある。

鴨長明が生きた時代

平安時代の末期から鎌倉幕府の初期、つまり天皇を中心とする貴族政治(藤原政権)から、平氏と源氏の合戦を経て源氏による武家政権が確立するという日本史の大転換期を長明は生きたことになる。それは、民衆にとっては大混乱期であった。その時はまた、自然災害の頻発する時代でもあった。

鴨長明 年譜

鴨長明 年譜

大福光寺本「方丈記」の冒頭部分

画像の説明

方丈記の伝本(写本)は多く伝えられているが、現在、一般に売られている注釈書の類いは、すべて「大福光寺本」を底本にしている。この大福光寺本は長明自筆という説もあり、最善本であるとされている。
文体は、対句を駆使した和漢混交文で書かれ、リズム感があり音読に適している。

方丈の庵

方丈の庵

 いま、日野山の奥に、跡を隠して後、東に三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南に竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北に寄せて障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢を掛け、前に法華経を置けり。東の際に蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚(つりだな)を構へて、黒き皮籠(かわご)三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物(しょうもつ)を入れたり。傍らに、琴・琵琶おのおの一張を立つ。いはゆる、折琴、継琵琶、これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。
その所のさまをいはば、南に懸樋(かけひ)あり。岩を立てて、水を溜めたり。

※方丈:一丈四方の面積。1丈は10尺であるので、1方丈は約3.030m四方。やや大きめの4畳半くらい。
※閼伽棚:仏に水や草花を供える容器を置く棚。
※皮籠三合:皮を張った籠、合は蓋のある入れ物を数える助数詞。
※抄物:写したもの。抜き書きしたもの。
※往生要集:僧都、源信著。985年

方丈記の章段構成

新潮日本古典集成「方丈記 発心集」の本文を段(漢数字により一~七)と上部の「小見出し」を内容に即して区分したもの。
方丈記の章構成


注釈:
専修音読:浄土宗開祖、法然の「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」のパクリ
只管音読:曹洞宗開祖、道元の「只管打坐(しかんたざ)」のパクリ

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