「歎異抄」を音読する(2)

「歎異抄」音読の第2回です。

「歎異抄」を朗読する、もしくは他者の朗読を聞く前に、自身の声で音読してください。歎異抄の文字をしっかり見て、それを自分の声にして、自分の耳に、自分の心にとどくように音読してください。音読を繰り返し、こころからの理解が深まれば、それは自然と朗読になります。音読が出来なければ、朗読は出来ません。また他者の朗読をしっかり聞くことは出来ません。
歎異抄の真意は、ひとえに自身の口でこころから「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」を称える(称名(しょうみょう)念仏)お誘いであります。

一 「慈悲に聖道(しゅうどう)・浄土のかわりめあり。
聖道の慈悲というは、ものを憐れみ、愛しみ、育むなり。しかれども、思うがごとくたすけ遂ぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ(ぶつ)になりて、大慈大悲心をもって、思うがごとく、衆生を利益するをいふべきなり。
今生に、いかに、いとおし、不便と思うとも、存知のごとくたすけ難ければ、この慈悲、始終(しじゅう)なし。
しかれば、念仏申すのみぞ、末とほりりたる大慈悲(だいじひ)心にて候ふべき」と云々。

一 「親鸞は父母(ぶも)孝養(けうよう)のためとて、一返にても念仏申したること、いまださふらはず。
そのゆゑは、一切の有情(うじょう)は、皆もって、世々(せぜ)生々(しゃうじゃう)の父母・兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生(じゅんじしゃう)に、(ぶつ)になりて、たすけ候ふべきなり。
わが力にて励む善にても候はばこそ、念仏を廻向(ゑかう)して、父母をも助け候はめ。ただ自力を捨てて、いそぎ浄土のさとりを開きなば、六道・四生の間、いずれの業苦(ごふく)に沈めりとも、神通(じんづう)・方便をもって、まづ、有縁(うえん)を度すべきなり」と云々。

一 「専修(せんじゅ)念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論(さうろん)の候ふらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人(いちにん)も持たず候ふ。
そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ、弥陀の御もよほしにあづかつて、念仏申し候ふ人を、わが弟子と申すこと、極めたる荒涼(かうりゃう)のことなり。
つくべき縁あればともなひ、離るべき縁あれば離るることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなり、なんど言ふこと、不可説なり。
如来(りょらい)より賜はりたる信心を、わがもの顔に取り返さんと申すにや。かへすがへすも、あるべからざることなり。
自然(じねん)(ことわり)にあひかなはば、仏恩をも知り、また、師の恩をも知るべきなり」と云々。

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