更級日記 第2回
上洛の旅(上総から京へ)
上総国府(千葉県市原市近郊)での生活を終え(国司としての任期は一般的に3~4年)て、13歳の時、九月三日に上総を出立、十二月二日京に到着、約3ヶ月の旅日記(回想)。
旅の途中に多くの地名が出てきます。多くは「
和歌の「
歌枕:和歌の題材とされた名所旧跡等。
当時の人々に共有された特別なイメージを持つ地名。
- 粟津: 滋賀県大津市。粟津野、粟津の里、粟津の原、粟津の森。
関越えて 粟津の森の あはずとも 清水に見えし 影を忘るな よみ人しらず
- 瀬田橋:滋賀県大津市琵琶湖。瀬田の長橋。瀬田の唐橋。
まきの板も 苔むすばかり なりにけり いくよへぬらむ 瀬田の長橋 大江匡房
- 逢坂、逢坂の関:東海道、東山道における近江国・山城国国境の関。
これやこの 行くも帰るも 別れつつ 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸
引歌:有名な和歌の一部を引用して、和歌や文章を作ること。
あづま路の 道のはてなる 常陸帯の かごとばかりも あひ見てしがな 紀友則
「あづま路の道のはてなる」は、常陸を詠み出すための「
常陸帯:正月の十四日に、常陸の国の鹿島の神の祭り、男女が自分の思いを寄せている相手の名前を帯に書いて神前に供え、それを神主が結び合わせて、その様子を見て結婚(後の運命)を占ったこと。
帯の留金のことを「
訳)託言ほど(ほんの申し訳程度のちょっとの時間)でもいいから、あなたに会いたいものだなあ。
そんな歌がある「あづま路」の「果てよりも、なお奥つかたに…」
このような表現技法(修辞)を「引き歌」といいます。
平安時代の関所(関)
都を守るため、また都からの逃亡を防ぐため街道の要所に「関所」が設けられた。
壬申の乱(671年)の時に鈴鹿関を守る関司が大海人皇子(後の天武天皇)方についていたことが日本書紀に書かれている。平安時代半ば、鈴鹿関、
三関のほか、東海道の駿河・相模両国境には足柄関、同じく東海道の常陸・陸奥両国境には
姥捨て伝説
大和物語 第156段
信濃の国に、更級といふ所に、をとこ住みけり。若きときに親は死にければ、をばなむ親のごとくに、若くよりあひ添ひてあるに、この(をとこの)
月のいと明かき夜、「
わが心 慰めかねつ 更級や 姨捨山に照る月を見て
とよみてなむ、また行きて迎へ持て来にける。それよりなむ、姨捨山といひける。「慰めがたし」とは、これがよしになむありける。
※小文字の括弧( )内は意味が通りやすくする為の挿入です。
※慰めかねつ:慰めることが出来ない。こらえきれない。
※
歌枕としての「姥捨山」は、最古の用例である古今集の「わが心 なぐさめかねつ さらしなや をばすて山にてる月を見て」から、<こころ慰まない>心情を詠むのが一般的であった。
大和物語156段は、この古今集の歌を軸に書かれたものだろう。また、更級日記の「月もいでで やみに暮れたるをばすてに なにとてこよひ たづね来つらむ」の歌も、このような系譜から心情を詠んだのだろう。しかし、和歌の世界では、姨捨山を姨捨伝説とは無関係に「月の名所」として詠んだほうがよいようだ。
「月の名所」の姥捨山を詠んだ和歌、俳句
我が心 なぐさめかねつ さらしなや 姨捨山にてる月を見て 読人知らず
あやしくも 慰めがたき心かな 姨捨山の月を見なくに 小野小町
さらしなに やとりはとらじ 姨捨の山まで照らせ秋の夜の月 壬生忠見
君が行く 処ときけば 月見つつ 姨捨山ぞ恋しかるべき 紀貰之
月影は 飽かず見るとも 更級の山の麓に長居すな君 紀貰之
秋の夜の 暁かたの月みれば 姥捨山そ おもいやらるる 源信明
いずこにも 月は分かじを いかなれば さやけかるらむ 更級の月 隆源
更級や 昔の月の光かは ただ秋風ぞ 姨捨の山 藤原定家
隈もなき 月の光をながむれば まづ姨捨の山ぞ恋しき 西行
もろともに 姨捨山を越るとは 都にかたれ 更級の月 宗良親王
見つつ我 なぐさめかねつ 更級や 姥捨山に 照りし月かも
更級の山よりほかに照る時も 慰めかねつ この頃の月
おもかげや 姨ひとり泣く 月の友 松尾芭蕉
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