「土佐日記」を音読する

「土佐日記」の始まりの段を音読しました。

土佐守の任期を終えた紀貫之が、934年12月21日に土佐国司館を出てから、京の自邸に着くまでの55日間の旅日記です。
当時の貴族の男性は、漢字で、つまり漢文で日々の記録を付けていました。貫之は、それを女性が書いたと仮構して、当時の女性が使っていた「仮名」で書きました。
それは、後に女性の手による「蜻蛉日記」、「和泉式部日記」、「紫式部日記」、「更級日記」などの「日記文学」への道を開くことになりました。

 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。それの年の十二月(しはす)二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の日の、(いぬ)の時に門出(かどで)す。そのよし、いささかに、ものに書きつく。
 ある人、(あがた)四年(よとせ)五年(いつとせ)はてて、例のことども、みなし終へて、解由(げゆ)などとりて、住む(たち)より出でて、船に乘るべきところへ渡る。かれこれ、知る知らぬ、おくりす。年ごろ、よくくらべつる人々なむ、わかれ難く思ひて、日しきりに、とかくしつつののしるうちに、夜更けぬ。

 二十二日(はつかあまりふつか)に、和泉の国までと、平らかに(ぐはん)たつ。藤原のときざね、船路なれど(むま)のはなむけす。上中下(かみなかしも)、酔ひあきて、いとあやしく、潮海(しほうみ)のほとりにてあざれあへり。
 二十三日(はつかあまりみか)。八木のやすのりといふ人あり。この人、国にかならずしもいひつかふ者にもあらざなり。これぞたたはしきやうにて、馬のはなむけしたる。守がらにやあらむ。国人の心の常として、今はとて見えざなるを、心あるものは、恥ぢずになむ来ける。これは物によりてほむるにしもあらず。
 二十四日(はつかあまりよか)講師(こうじ)、馬のはなむけしに出でませり。ありとある上下、(わらは)まで酔ひしれて、一文字(いちもんじ)をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。

 二十五日(はつかあまりいつか)。守の館より、呼びに文もて来たなり。呼ばれて至りて、日一日、夜一夜、とかく遊ぶやうにて、明けにけり。
 二十六日(はつかあまりむゆか)。なほ守の館にて、饗応(あるじ)しののしりて、郎党までに物かづけたり。漢詩(からうた)声上げていひけり。和歌(やまとうた)、主も客人(まらうど)も、こと人もいひあへりけり。漢詩は、これにえ書かず。和歌、主の守のよめりける、

	都いでて 君にあはむと 来しものを
		来しかひもなく 別れぬるかな

となむありければ、帰るさきの守のよめりける、

	白妙の 浪路を遠く ゆきかひて
		われに似べきはたれならなくに

こと人々のもありけれど、さかしきもなかるべし。とかくいひて、さきの守、今のも、もろともにおりて、今の主も、さきのも、手とりかはして、酔ひ言ごとに心よげなる言して、出で入りにけり。

 二十七日(はつかあまりなぬか)。大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに、京にて生れたりし女子(をむなご)、国にてにはかに亡せにしかば、このごろの出立(いでた)ちいそぎを見れど、なにごともいはず、京へ帰るに、女子のなきのみぞ、悲しび恋ふる。ある人々もえたへず。この間にある人の書きて出せる歌、

	都へと 思ふもものの かなしきは
		帰らぬ人の あればなりけり

また、あるときには、

	あるものと 忘れつつなほ なき人を
		いづらと 問ふぞ 悲しかりける

といひける間に、鹿児(かこ)の崎といふところに、守の兄弟(はらから)、またこと人これかれ、酒なにと持て追ひ来て、磯におりゐて、別れがたきことをいふ。守の館の人々の中に、この来たる人々ぞ、心あるやうには、いはれほのめく。
 かく別れがたくいひて、かの人々の、口網(くちあみ)(もろ)持ちにて、この海辺にて(にな)ひ出だせる歌、

	をしと思ふ 人やとまると 葦鴨の
		うち群れてこそ 我は来にけれ

といひてありければ、いといたく()でて、行く人のよめりける、

	棹させど そこひも知らぬ わたつみの
		深きこころを 君に見るかな

といふ間に、楫取りもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、はやくいなむとて「潮滿ちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、船に乘りなむとす。
 このをりに、ある人々、折節につけて、漢詩ども、時に似つかはしきいふ。またある人、西国なれど甲斐(かひ)歌などいふ。かくうたふに、「船屋形の(ちり)も散り、空ゆく雲も(ただよ)ひぬ」とぞいふなる。
 今宵(こよひ)、浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘のすゑひら、こと人追ひきたり。

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